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第4話 母の畑

last update تاريخ النشر: 2026-09-13 21:56:07

第4話 母の畑

 日曜日の朝、神崎冬真はいつもより一時間早く目を覚ました。

 目覚まし時計が鳴る前だった。寒さに起こされたわけではない。昨夜は六月とは思えないほど冷え込んだので、さすがに意地を張るのをやめ、暖房をつけたまま眠った。それでも朝になると部屋にはどこか冬のような静けさがあり、窓の向こうには低い雲が重く垂れ込めていた。

 スマートフォンで気温を確認する。

 午前六時十二分、東京都心六度。

 予想最高気温は十一度。

「これで六月の最初の日曜か」

 冬真はベッドの縁に座りながら呟いた。

 テレビをつけると、朝のニュース番組では相変わらず低温の話題を扱っていた。ただ、数日前まで「珍しい寒さ」と笑いながら紹介していた番組の空気は少し変わっている。画面の下には国内各地の農作物被害が字幕で流れていた。

『長野県ではレタスや白菜に霜害が確認され、群馬県でもキャベツの生育に深刻な影響が出ています。また北海道の一部ではジャガイモや豆類への被害が報告されており、農林水産省が詳しい調査を進めています』

 司会者が神妙な顔をする。

『スーパーでは野菜価格の高騰が続いていますが、今後さらに値上がりする可能性はあるのでしょうか』

 農業経済の専門家が答える。

『国内だけを見るなら、別の産地からの出荷や輸入によってある程度補うことは可能です。ただ、今回の特徴は海外の主要農業地域でも同時に低温被害が出ている点です。ですから例年と同じように、足りない分を海外から買えばいい、と単純には言えません』

 冬真は着替える手を止めた。

 昨日まで、自分が考えていたことと同じだった。

 国内でなければ輸入すればいい。

 しかし輸入元にもないのならどうする。

 画面が切り替わり、アメリカ中西部の農地が映る。

 畑の端に雪が残っていた。

 別の映像では、農家らしい男が土を手に取りながら何かを話している。吹き替えの声が重なる。

『こんな六月は見たことがない。植え直すべきかもしれないが、来週また霜が来るなら種を捨てるようなものだ』

 冬真はテレビを消した。

 これから母親の家へ行く。

 実際の畑を見た方が、ニュースを百本見るよりよほど分かるだろう。

 車に乗り、途中で陽菜を拾った。

 妹は駅前のロータリーに立っていたが、冬真の車を見つけるなり、助手席へ乗り込む前から不満そうな顔をしていた。

「お兄ちゃん、五分遅い」

「五分くらいで怒るなよ」

「寒いんだって。六月だから薄手のコートでいいと思ったら普通に冬じゃん。駅の中で待とうと思ったけど、コーヒー買ったら人多くて座るところないし」

「ちゃんと防寒してこいよ」

「六月にダウンジャケット持って出る人なんていないでしょ。お兄ちゃんこそ昨日まで暖房つけないとか言ってなかった?」

「誰から聞いた」

「お母さん」

「何でそんなことまで話してるんだよ」

「知らない。お母さんに聞いて」

 陽菜はそう言いながらシートベルトを締めた。

 顔立ちは兄妹なので似ている部分もあるが、雰囲気は全く違う。冬真が黙っていると機嫌が悪そうに見えるのに対し、陽菜は何もしていなくても人懐っこく見える。

「それより米買ったか」

 冬真が車を発進させながら尋ねると、陽菜は露骨に嫌そうな顔をした。

「またその話?」

「買ったのか聞いてるだけだろ」

「買ったよ。一袋。五キロ」

「ならいい」

「昨日、三軒回ったんだからね」

「三軒?」

「一軒目売り切れ、二軒目は高いのしか残ってなくて、三軒目でやっと普通のやつ見つけた。しかも一人一袋まで」

 冬真は横目で妹を見る。

「もうそこまで来てるのか」

「知らなかったの?」

「俺の近所も減ってるけど、全部なくなるほどじゃなかった」

「地域差あるんじゃない? でもSNS見てると、米がないって投稿かなり増えてるよ」

「SNSは大げさだろ」

「そうなんだけど、同じ写真使ったデマとかじゃなくて、普通の人がそれぞれ別のスーパー撮ってるからね。昨日なんて『米を買うために開店前から並んだ』って動画が流れてきた」

「並ぶほどか?」

「みんな不安なんでしょ」

 陽菜は窓の外を見ながら言った。

「お兄ちゃんは不安じゃないの?」

 冬真は少し考えた。

「分からない」

「何それ」

「不安になったところで、何が正解か分からないからな。買い占めれば迷惑になるし、何もしないで本当に食料がなくなったら後悔する」

「珍しいね。お兄ちゃんが迷ってる」

「俺を何だと思ってるんだ」

「何でも一人で勝手に決める人」

「ひどい評価だな」

「でもだいたい合ってるでしょ」

「お前だって人の話聞かないだろ」

「私は聞くよ。聞いた上で従わないだけ」

「もっと悪いじゃないか」

 陽菜が笑った。

 こんなくだらない会話をするのも久しぶりだった。

 高速道路に入ると、交通量は普段の日曜と比べて少し少なく感じた。空は相変わらず暗く、道路脇の木々は六月とは思えないほど濡れて寒々としている。

 途中のサービスエリアに寄った。

 陽菜がトイレへ行っている間、冬真は売店を覗いた。

 菓子類や飲み物は普通に並んでいる。

 だが弁当売り場には空きが目立った。

「まだ朝だからか?」

 店員が商品を並べていたので尋ねてみる。

「すみません、弁当ってこれから増えます?」

 店員は少し困った顔をした。

「今日はこれで全部ですね」

「全部?」

「配送量が減ってるんです。おにぎりもいつもの七割くらいしか入ってこなくて」

「何かあったんですか」

「詳しいことは分からないですけど、原材料と配送の関係だって聞いてます」

 そこへ陽菜が戻ってきた。

「何してるの?」

「弁当少ないらしい」

「また食べ物?」

「気になるだろ」

「最近のお兄ちゃん、食料評論家みたいになってるよ」

「お前も見ろよ。普段もっと並んでるだろ」

 陽菜は棚を眺めた。

 笑っていた顔が少しだけ真面目になる。

「確かに少ないね」

「だろ」

「でも、まだあるじゃん」

「そうなんだよな」

 二人とも、同じところで考えが止まった。

 まだある。

 その言葉は安心材料にもなるし、逆に不安を先送りする言い訳にもなる。

 母親の家に着いたのは午前十時過ぎだった。

 住宅街から少し離れた、畑の多い地域にある古い一戸建てだ。

 冬真が車を停めると、玄関から春江が出てきた。

「あら、本当に二人で来たの」

「呼んだの母さんだろ」

「そうだけど、陽菜は朝弱いから来ないかと思ってた」

「ひどい、お母さん。私だって起きるときは起きるよ」

「それを毎日やれば立派なんだけどね」

「来て最初の言葉がそれ?」

 春江は笑いながら二人を家へ入れた。

 玄関には土のついた長靴が置かれている。

 台所からは味噌汁の匂いがした。

「昼まで待つの面倒だから、先に畑見せるよ」

 春江が言う。

「寒いから上着着てきなさい。あんたたち東京にいると、この辺の寒さ分からないでしょう」

「東京も寒いよ」

「こっちはもっと寒いよ。今朝なんて二度だったんだから」

「二度?」

 陽菜が声を上げた。

「六月で?」

「六月でも二度は二度だよ」

 春江は平然としている。

 三人で裏庭へ出た。

 冬真はすぐに足を止めた。

 電話で聞いていたし、写真も見ていた。

 それでも実物は想像以上だった。

 トマトの苗が黒ずんでいた。

 葉は縮れ、ところどころ枯れている。

 ナスも同じだ。

 キュウリは支柱に巻きついているものの、葉の先が変色している。

 春江がしゃがみ込み、トマトの茎を指で触った。

「これね。もう駄目だと思う」

 陽菜も横にしゃがむ。

「本当に真っ黒だね」

「霜にやられるとこうなるの?」

 冬真が尋ねる。

「だいたいね。寒さに弱いものは一晩で駄目になることもあるよ。昨日ビニールかけたけど、今朝また冷えたから」

 畑の一部には透明なビニールが張られていた。

 冬真が近づいて確認する。

「もっと完全に囲えばどうだ?」

「昼間に日が出れば中が暑くなるし、湿気もこもる。何でも包めばいいってわけじゃないよ」

「換気できるように作ればいい」

「できるならお願いしようと思ってた」

「最初からそれ狙いだろ」

「息子は使えるときに使うもんだよ」

「母親ってそういうこと平気で言うよな」

「無料の設備屋が身内にいるんだから使わない方がもったいないでしょう」

 陽菜が笑う。

「お兄ちゃん、完全に業者扱いじゃん」

「お前も手伝えよ」

「私は広報担当」

「何の広報だ」

「お母さん頑張ってますって写真撮って親戚に送る」

「一番いらない仕事だな」

 三人で笑った。

 けれど畑を歩くにつれ、笑いは少なくなっていった。

 春江の家庭菜園はそれほど大きくない。

 それでもジャガイモ、玉ねぎ、ネギ、大根、少量の豆など、いくつもの作物が植えられている。

 丈夫なものはまだ生きている。

 しかし状態が良いとは言えなかった。

「これ、ジャガイモはどうなんだ」

「今のところ地上部分は残ってる。でも葉が傷めば芋も大きくならない。これ以上寒い日が続いたらどうだろうね」

「玉ねぎは?」

「そっちは収穫近いからまだまし」

 春江は立ち上がり、腰を叩いた。

「問題は夏物だよ。これから採れるはずのものが全部遅れるか、駄目になる」

「市場の野菜が高いのもそれか」

「うちだけじゃないからね」

 春江は畑の向こうを見た。

「斉藤さんのところ、行ってみる?」

「農家の?」

「昨日話したでしょう」

 三人は家の裏手から細い農道を歩いた。

 風が冷たい。

 土は湿っている。

 遠くに広がる畑には、白い不織布やビニールがいくつも張られていた。

 季節外れの防寒対策なのだろう。

 春江が一軒の農家の前で声をかける。

「斉藤さーん」

 少しして、納屋の横から六十代後半くらいの男が出てきた。

「おお、春江さんか」

「息子と娘が来たから、畑見せてもらってもいい?」

「こんなもん見ても面白くないぞ」

 男は笑ったが、その顔には疲れが見えた。

「冬真です。昔、何度か会ってます」

「ああ、春江さんとこの兄ちゃんか。大きくなったな……って言う歳でもないか」

「三十二です」

「俺から見たら十分若い」

 斉藤は笑った。

 陽菜も頭を下げる。

「妹の陽菜です」

「二人とも都会の顔になったな。昔は畑の中走ってたのに」

「私は今でも走れますよ」

「走るだけなら誰でもできる。草取りしてくれ」

「それはちょっと」

「都会の人間はこれだから」

 軽口を交わしながら畑へ向かった。

 そこで冬真は言葉を失った。

 広い畑だった。

 本来ならキャベツが青々と並んでいるはずなのだろう。

 しかし葉はところどころ茶色く変色し、外側が傷んでいる。

 レタス畑も同様だった。

 白い霜除けをかけている場所もあるが、それでも完全には防げていない。

「これ、全部出荷する予定だったんですか」

 冬真が尋ねる。

「そのつもりだった」

 斉藤はキャベツを一つ持ち上げた。

「まだ食えるやつもある。けど商品として出せるかは別だ。見た目が悪けりゃ市場は値をつけないし、中が傷んでたら運んでる途中で腐る」

「こんなに寒いのに腐るんですか?」

 陽菜が聞いた。

「畑で凍ったり溶けたりを繰り返す方が悪いこともある。野菜は機械じゃないからな、壊れた部品だけ交換ってわけにはいかん」

 斉藤は冬真を見て笑った。

「設備屋なんだって?」

「はい」

「羨ましいよ。俺も畑の温度調節できる機械が欲しい」

「ハウスならできるんじゃないですか」

「できるさ。燃料が無限ならな」

 斉藤の返事は早かった。

 冬真は黙った。

「ハウス暖めるにも金がかかる。重油も電気もいる。しかも今の寒さが一週間で終わるなら耐えられるが、一か月続くなら話が変わる。採れる野菜より暖房代の方が高くなったら、農家は作れない」

「値段を上げれば」

「誰が買う?」

 斉藤は苦笑した。

「キャベツ一玉二千円で売るか? 三千円か? 畑で作れるからって、普通の人が買えない値段になったら食料として意味がないだろう」

 冬真はスーパーで見た九百八十円の白菜を思い出した。

 今までは、値段が上がれば農家が儲かるのだと単純に思っていた。

 だがそうではない。

 収穫量が減り、燃料や資材費が増えた結果として値段が上がるなら、作る側も買う側も苦しい。

「今年だけなら、何とかなるんですか」

 冬真が尋ねた。

 斉藤はしばらく畑を見た。

「今年だけならな」

 昨日も聞いた言葉だった。

「作り直せるものもある。秋物に切り替えることもできる。保険もあるし、行政の支援が出るかもしれん。貯金崩して一年耐える農家もいるだろう」

「じゃあ来年も続いたら?」

 陽菜が聞いた。

 斉藤は答えるまで少し時間を置いた。

「離農する奴が増えるだろうな」

「農家を辞めるってことですか」

「そうだ。金が続かない。身体も続かない。畑なんて、一年休ませて来年また会社員みたいに出社すればいいってもんじゃない。機械のローンもあるし、土地もある。種も肥料も資材も買わなきゃならない」

 斉藤は土を蹴った。

「それにな、一番怖いのは、何を作ればいいか分からなくなることだ」

「どういう意味ですか」

「農業ってのは季節を信じてやるんだよ」

 斉藤は遠くの空を見た。

「春になれば暖かくなる。梅雨になれば雨が降る。夏になれば暑くなる。秋になれば涼しくなる。もちろん毎年同じじゃない。暑すぎたり、雨が少なかったり、台風が来たりする。それでも大きな流れはある。その流れを見ながら、何月に種をまいて、何月に植えて、何月に採るか決めてる」

 冬真は黙って聞いた。

「六月に霜が降りる。それも一日じゃなく何日も続く。来週も寒いかもしれない。そうなると今までの経験が役に立たない。三十年やってきた農家でも、今年はいつ何を植えればいいのか分からん」

「気象予報を見ながらじゃ駄目なんですか」

「その気象予報が毎週変わってるだろ」

 斉藤は笑った。

 笑っているのに、目は笑っていなかった。

「先週は今週暖かくなるって言ってた。今週になったら来週暖かくなるって言った。来週になったら何て言うんだろうな」

 冬真は返す言葉がなかった。

 春江が小さく息を吐く。

「斉藤さん、今年だけならいいねえ」

「ああ」

 男は畑を見た。

「今年だけならな」

 その声は、願いに近かった。

 帰る前、斉藤は形の悪いキャベツを二玉持ってきた。

「売り物にならんから持ってけ」

 春江が首を振る。

「こんな時に悪いよ」

「悪くない。捨てるより食ってもらった方がいい」

「でも今キャベツ高いでしょう」

「高いからって、こいつが元に戻るわけじゃない」

 斉藤は春江へ押しつけるように渡した。

「食えるうちに食え」

 その言葉が妙に重く聞こえた。

 家へ戻ってから、冬真はホームセンターへ資材を買いに行った。

 春江と陽菜もついてくる。

 店内に入った瞬間、三人とも立ち止まった。

 園芸用品売り場が混んでいた。

 防寒用の不織布。

 ビニール。

 簡易温室。

 園芸用ヒーター。

 そうした商品の棚に人が集まっている。

「みんな考えること同じなんだね」

 春江が言った。

 冬真は必要な資材を探した。

 透明ビニール。

 パイプ。

 留め具。

 換気用の部材。

 簡単な構造なら家庭菜園を囲える。

 しかし値札を見て眉をひそめた。

「高くなってるな」

 近くにいた店員が聞きつけた。

「最近、一気に売れてまして。次回入荷分から一部値上げになる予定です」

「今ある分も少ないですね」

「防寒用品はかなり品薄です。普通ならこの時期ほとんど売れませんから、そもそも在庫を持っていないんです」

「取り寄せできますか」

「商品によります。ただメーカー側にも注文が集中していまして、納期未定のものもあります」

 冬真は棚を見回した。

 家庭菜園を守ろうとする人。

 農家。

 園芸店。

 誰もが同じものを必要としている。

 需要は急に増えた。

 しかし物は急には増えない。

「これもそのうちなくなるのかな」

 陽菜が言った。

「何が?」

「こういうの。ビニールとかヒーターとか」

「なくなるというより高くなるかもな」

「食べ物も高くなる。作る道具も高くなる。じゃあどうすんの?」

「知らないよ」

「お兄ちゃん最近そればっかり」

「知らないものは知らない」

 冬真は少し苛立って答えた。

 陽菜も眉を寄せる。

「別に怒らなくてもいいじゃん」

「怒ってない」

「その言い方が怒ってるんだよ」

「お前が何でも俺に答え求めるからだろ」

「求めてないよ。ただ聞いただけじゃん」

「同じだろ」

「全然違う」

 春江が二人の間へ顔を出した。

「はいはい、店の中で兄妹喧嘩しない。恥ずかしいから」

「お母さん関係ないでしょ」

「原因は陽菜だよ」

「ほら、すぐ私のせいにする」

「二人とも同じ顔して怒るんだから面倒なんだよ」

 母親に言われ、二人とも黙った。

 少しして陽菜が吹き出した。

「同じ顔だって」

「笑うところじゃないだろ」

「お兄ちゃんも笑いなよ」

「嫌だ」

「面倒くさ」

「お前にだけは言われたくない」

 結局、冬真も少し笑った。

 家へ戻ると、三人で簡易的な防寒設備を作った。

 冬真がパイプを組み、陽菜がビニールを押さえ、春江が横から注文をつける。

「そこ、もう少し低くできない?」

「低くすると中で作業しにくいだろ」

「私が入るんだから、あんたの身長に合わせなくていいよ」

「換気のために高さあった方がいいんだよ」

「でも風に弱くなるでしょう」

「だから固定する」

「本当に大丈夫?」

「母さん、俺の仕事何だと思ってる?」

「機械直す人」

「ざっくりしすぎだろ」

 陽菜が笑う。

「お母さん、もっと信じてあげなよ。お兄ちゃん、こういうときだけは頼りになるんだから」

「こういうときだけって何だよ」

「普段は頼りにならないってこと」

「お前の米の心配までしてやっただろ」

「はいはい、ありがとう」

「全然感謝してないだろ」

 作業は夕方までかかった。

 完成した囲いを見て、春江は満足そうに頷いた。

「これなら少しは違うかねえ」

「寒さの程度による。氷点下まで下がったら、これだけじゃ足りない」

「六月に氷点下なんて来ないでしょう」

 春江が言ってから、自分で苦笑した。

「そう言えなくなってるのが嫌だね」

 冬真も何も言えなかった。

 夕食は斉藤からもらったキャベツを使った鍋になった。

 六月に鍋。

 以前なら三人で笑っただろう。

 しかし窓の外の気温は五度だった。

「美味しい」

 陽菜がキャベツを頬張る。

「見た目悪くても普通に食べられるじゃん」

「だからもったいないんだよ」

 春江が言った。

「市場じゃ形が悪いとか傷があるとかで値段つかないんだろうけど、家で食べる分には十分なのに」

「全部直接売ればいいんじゃない?」

「売るにも人手も場所もいるし、何百玉、何千玉あったら家の前で売り切れる量じゃないよ」

「そういうものなんだ」

 冬真は黙って鍋を食べていた。

 キャベツ。

 豚肉。

 豆腐。

 ネギ。

 味噌。

 今まで値段を気にしたこともないような普通の料理だった。

「ねえ、お兄ちゃん」

 陽菜が言った。

「何?」

「もしさ、本当に食べ物が足りなくなったら、こういう畑って結構大事なのかな」

「そりゃ大事だろ」

「じゃなくて、家族三人くらい食べていける?」

 春江が笑った。

「無理無理。こんな畑じゃ一年分なんて作れないよ」

「そうなの?」

「野菜だけ食べて生きるならともかく、米も小麦も大豆も必要でしょう。油だって塩だって、うちじゃ作れない。冬になれば野菜も減る」

「そっか」

「家庭菜園なんて、買うものを少し減らす程度だよ」

 冬真は箸を止めた。

「でも、何もないよりはいい」

「そりゃそうだね」

「母さん、今採れてるものってどのくらい保存できる?」

「玉ねぎやジャガイモならちゃんと乾かせばしばらく持つ。大根も方法はあるし、漬物にできるものもあるよ」

「今年はできるだけ保存した方がいいかもしれない」

 春江と陽菜が同時に冬真を見た。

「何?」

 冬真が尋ねると、陽菜が言った。

「お兄ちゃん、やっぱり心配してるじゃん」

「心配ってほどじゃない」

「保存した方がいいなんて、普通言わないでしょ」

「スーパー高くなってるんだから、家にあるもの無駄にしない方がいいってだけだ」

「本当にそれだけ?」

 冬真は少し黙った。

「……分からない」

 正直に答えた。

「会社でも世界中の農業関連の仕事が止まってる。斉藤さんの畑もあれだ。母さんの畑も駄目になってる。ニュースじゃアメリカも中国もヨーロッパも同じだって言ってる」

 春江は鍋からキャベツを取りながら聞いている。

「だから何か起きると思う?」

「そこまでは分からない。でも、何も起きないと決めつける理由もない」

 陽菜が箸を置いた。

「じゃあどうすればいいの?」

「それが分からないから困ってるんだよ」

 少し強い言い方になった。

 だが陽菜は怒らなかった。

「そっか」

 それだけ言った。

 春江が笑った。

「分からないなら、できることだけやればいいんじゃない?」

 冬真は母親を見る。

「できること?」

「畑の野菜はちゃんと採る。食べきれないなら保存する。必要なものは必要な分だけ買う。無駄にしない。寒いなら暖かくする。それしかないでしょう」

「単純だな」

「世の中がどうなるか分からないのに、私たちだけ答え出せるわけないよ」

「それはそうだけど」

「考えるのはあんたの得意な仕事だろうけど、考えすぎて何もしなくなるのが一番駄目だよ」

 冬真は苦笑した。

「母さんに説教されるとは思わなかった」

「親なんだからたまには説教くらいするよ」

「たまにじゃないだろ」

「失礼だね」

 陽菜が笑った。

 その夜、冬真は東京へ戻る前に庭へ出た。

 外は四度まで下がっていた。

 新しく作ったビニールの囲いが暗闇の中に並んでいる。

 春江が隣に来た。

「ちゃんと暖かい格好しなさいよ」

「すぐ車乗るよ」

「冬真」

「何?」

「陽菜のこと、少し気にしてやってね」

「本人に言えよ」

「あの子は強がるから」

「俺だって暇じゃない」

「知ってる」

 春江は畑を見た。

「でも親っていうのはね、こういうとき、自分より子供の方が心配になるんだよ」

「こういうときって?」

「何となく世の中が変なとき」

 冬真は母親を見る。

「母さんも感じてるのか」

「感じてるっていうほど立派なものじゃないよ。ただ、長く生きてるとね、いつもと違うってことくらいは分かる」

「昔にもこんなことあった?」

「冷夏はあったよ。米が不作になった年もあった。台風で野菜が高くなったこともある。でも今回は少し違うね」

「何が?」

 春江はしばらく答えなかった。

「世界中ってところかねえ」

 冬真も黙った。

「テレビつけると、どこの国も寒いって言ってる。あれだけ世界が広いのに、みんな同じ話してるでしょう」

「そうだな」

「私には難しいこと分からないけどさ」

 春江は小さく笑った。

「畑は嘘つかないよ。寒ければ育たない。それだけは分かる」

 冬真は黒ずんだトマトの苗を見た。

「今年だけならいいな」

 そう言った。

 春江は答えなかった。

 東京へ戻る途中、ラジオからニュース速報が流れた。

『農林水産省は本日、全国的な低温による農作物被害について緊急調査を実施すると発表しました。また一部の小売店で米や保存食品の購入が集中しているとして、政府は消費者に冷静な行動を呼びかけています』

 助手席の陽菜がスマートフォンを見ながら言った。

「お兄ちゃん」

「何?」

「これ見て」

 信号待ちで画面を見せられた。

 ニュース速報だった。

『主要穀物輸出国、国内供給確保のため小麦輸出量の一時制限を検討』

 冬真は画面を見たまま数秒動かなかった。

「これ、昨日言ってたやつ?」

「たぶんな」

「輸出しなくなるってこと?」

「まだ検討だ」

「でも、本当にやったら日本にも来なくなる?」

「全部止まるわけじゃないだろうけど、量は減る」

「じゃあ値段上がるよね」

「上がるだろうな」

「他の国から買えば?」

 陽菜が言った。

 冬真はすぐには答えなかった。

 信号が青になる。

 車を発進させる。

「その国も同じこと考えたら?」

 陽菜は黙った。

「自分の国の食べ物が足りなくなりそうなのに、外国へ売ると思うか?」

「……売らないね」

「俺でも売らない」

 ラジオではニュースキャスターが、

『現時点で国内食料供給に直ちに影響が出る状況ではありません』

 と繰り返していた。

 直ちに。

 冬真は最近、その言葉をよく聞くようになった気がした。

 直ちに問題はない。

 現時点では問題ない。

 一時的なものとみられる。

 冷静に行動してください。

 どれも嘘ではないのだろう。

 だが一週間後については、誰も何も約束していない。

 高速道路の脇には、季節外れの冷たい雨が降り始めた。

 冬真は前を見ながらハンドルを握る。

 母親の黒く枯れたトマト。

 斉藤の傷んだキャベツ畑。

 スーパーの空いた棚。

 海外の雪に覆われた農地。

 それらが、頭の中で一つの線につながり始めていた。

 まだ何も終わってはいない。

 食料は買える。

 ガソリンもある。

 電気もつく。

 家へ帰れば暖房も使える。

 しかし初めて冬真は、自分たちの暮らしを支えているものが思っていたほど頑丈ではないのではないかと考えた。

 そしてその夜、日本時間の午前零時を回った頃。

 一つの国が正式に発表した。

 小麦の輸出を、当面の間制限する。

 自国民への供給を最優先とするため。

 それは世界規模の大飢饉へ向かう、最初の扉が開いた瞬間だった。

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    第11話 備蓄米が来た日 七月三日の朝、神崎冬真が目を覚まして最初に確認したのは天気ではなく、政府の備蓄米放出に関するニュースだった。 数日前までなら、起床後に見るものといえば時刻と電車の運行情報くらいだった。ところが今では気温、降雪、道路状況、食料価格、燃料供給、穀物輸出規制まで確認してからでなければ、一日を始める気になれない。 習慣というものは恐ろしい。 世界が変われば、人間の「普通」も驚くほど早く変わる。 テレビでは朝六時台から、政府備蓄米を積んだ大型トラックが倉庫から出発する映像を繰り返し流していた。『政府は本日より、第一弾としておよそ二十万トンの備蓄米を市場へ放出します。大手卸売業者を通じ、順次全国の小売店へ供給される予定です』 画面の中では、巨大な倉庫からパレット単位で積み出される米袋が映っている。 冬真はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。「二十万トンって、多いのか少ないのか分からないな」 数字が大きすぎる。 一人暮らしの人間にとって米五キロなら感覚で分かる。 十キロなら一か月以上持つ。 だが二十万トンと言われても、それが日本全体で何日分なのか、冬真には実感できなかった。 番組には食料経済の専門家が出演していた。『今回の放出量だけを見れば、直ちに米が尽きるような状況ではありません。むしろ重要なのは流通です。備蓄米は国が保管しているだけでは消費者の食卓に届きません。精米、袋詰め、輸送、小売店への配送という工程が必要です』 司会者が質問する。『つまり、備蓄が十分あってもスーパーでは品切れが続く場合がある?』『当然あります。現在は道路状況の悪化や燃料問題によって物流能力そのものが低下しています。食料の量だけではなく、それを動かす能力も考えなくてはいけません』 冬真はコーヒーカップを置いた。

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    第10話 政府緊急会見 七月二日の朝、東京の雪はまだ完全には消えていなかった。 大通りでは除雪車が走り、駅前には踏み固められた雪が黒く汚れて残っている。道路の中央こそ車が通れる程度には回復していたが、歩道には凍結した箇所が多く、転倒して救急搬送される人が相次いでいると朝のニュースが伝えていた。 神崎冬真は窓辺に立ち、昨夜より少し薄くなった雪景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。 テレビでは、午前九時から政府が緊急記者会見を開くと繰り返し告知している。『政府は昨日から関係省庁による対策会議を続けており、食料供給、電力、燃料、交通網、農業被害などについて総合的な対応方針を発表する予定です』 冬真はカップを置いた。 午前九時。 いつもなら会社にいる時間だ。 だが今日は、高木課長から「午前中は自宅待機」と連絡が来ていた。鉄道は一部復旧したものの、運行本数が少なく、会社側も現場対応要員以外の出勤を抑えている。 昨日まで「通常勤務」を維持しようとしていた会社が、一日で方針を変えた。 それだけでも事態の深刻さが伝わってきた。 スマートフォンが震える。 柴田から社内チャットだった。『神崎さん、生きてます?』『生きてる』『うち子供大喜びです。庭で雪だるま作ってます』『元気だな』『嫁は泣きそうな顔してますけどね』 冬真は少し眉をひそめた。『何かあった?』『スーパー昨日から閉まってるんですよ。道路凍って配送来てないみたいで』『食料あるのか』『今のところは。親父が送ってきた米十五キロが神に見えます』『大事に食え』『そうします』 少しして、柴田からもう一通来た。

  • 冷夏と大飢饉で文明が終わる日、俺は家族と生き残る   第9話 東京、七月、雪

    第9話 東京、七月、雪 六月十二日の朝、神崎冬真はカーテンを開けたまま、しばらく窓の前から動けなかった。 昨夜の天気予報では、早朝に霙が混じる可能性があるとは言っていた。 それでも積もるとは聞いていない。 向かいのマンションの屋根が白い。 歩道の植え込みにも薄く雪が乗り、道路脇に停められている車の屋根は、まるで冬の朝のように白くなっていた。 さすがに路面までは積もっていない。アスファルトに落ちた雪は水に変わり、排水溝へ流れている。 それでも六月十二日だった。 冬真はスマートフォンを手に取り、外を一枚撮った。 撮ってから、自分が何のために写真を残したのか分からなくなった。「陽菜にでも送るか」 メッセージアプリを開くより先に、陽菜から写真が送られてきた。『こっちも白い。笑えないんだけど』 冬真は自分の写真も送った。『同じだ』 すぐ電話がかかってくる。『お兄ちゃん、今日会社行く?』「行くよ」『普通に?』「電車動いてるからな」『テレビ、不要不急の外出控えろって言ってるよ』「それ、大雪の地域だろ。東京はこの程度なら問題ない」『この程度って、六月に雪積もってるんだけど』「季節の話と交通の話は別だろ」『会社員って怖いね』「お前は?」『うち、午前中在宅になった。午後は状況見て判断だって』「いい会社じゃないか」『こういう時だけね。普段は編集修正、夜中でも飛んでくるけど』「在宅でも仕事は仕事だろ」『そういう正論、朝からいらない』 冬真は少し

  • 冷夏と大飢饉で文明が終わる日、俺は家族と生き残る   第8話 ガソリン

    第8話 ガソリン 翌朝、神崎冬真が自宅を出た時、最初に感じたのは寒さではなかった。 道路が詰まっている。 普段なら住宅街の細い道を抜け、駅前へ向かう車が途切れなく流れている時間だが、その日は妙に進みが遅かった。クラクションまで聞こえてくる。 何か事故でもあったのかと思いながら歩いていくと、原因はすぐに分かった。 大通り沿いのガソリンスタンドだった。 給油を待つ車が道路へはみ出し、その列が交差点を越えている。ざっと見ただけでも五十台以上は並んでいた。「朝から、こんなに?」 冬真は歩道で足を止めた。 スタンドの入口には店員が二人立ち、車を誘導している。電光掲示板には大きく「レギュラー 在庫あり」と表示され、その下に臨時の貼り紙が出ていた。『混雑のため、一台につき給油上限三十リットルとさせていただきます』 車列の中では運転席の窓を開け、苛立った顔で前を見ている人が多い。 冬真の横を、自転車に乗った老人が通り過ぎながら呆れたように言った。「みんな昨日のニュース見て来たんだろうなあ」 誰に話しかけたのか分からなかったが、冬真は思わず返した。「燃料不足になるって話ですか」「不足するとは言ってなかったけどね。値上がりするかもしれないって言われたら、みんな満タンにしたくなるだろう」「そうですね」「俺なんか車ほとんど乗らないから関係ないけどさ。昔のオイルショックみたいにならなきゃいいんだけどねえ」 老人はそう言って、自転車で去っていった。 冬真はしばらく列を眺めた。 昨日の夜、テレビではガソリンや灯油の卸売価格上昇を報じていた。 供給が止まるとは言っていなかった。 にもかかわらず、人は並ぶ。 米の時と同

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